彼の薄い唇が自分に触れたのを感じた瞬間、弥生は呼吸が止まり、反射的に顔を背けた。だが、彼の大きな手が彼女の腰をぐっと引き寄せた次の瞬間、紅い唇がしっかりと重なった。「んっ......」何が起きたのか理解した瞬間、弥生は思いきり彼を押し返した。「話してる途中でしょ、なにしてるのよ?」押し返された瑛介は、どこか名残惜しそうに彼女を見つめながら、かすれた声で言った。「嫉妬してるのが可愛くて、ついキスしたくなった」「......誰が嫉妬してるっていうのよ!」弥生は思わず反論したが、瑛介はただ笑って答えなかった。その態度に、弥生の苛立ちはさらに募った。自分は真剣に話しているというのに、彼はふざけたような態度で、まるで信じていないかのように話をはぐらかすと思うと、ますます腹が立ってきた。「......君、わざと私の注意を逸らそうとしてるんじゃない?」「変な想像しないでくれよ。僕はちゃんと君のこと、信じてる」そう言って、瑛介は彼女の頬を指先で軽くつまみながら、表情を真剣に戻した。「でも......どういうことなんだ? 僕を助けたのが奈々じゃないって、どういうこと? なんで今まで黙ってた?」ようやく彼が真面目な顔になってくれたことで、弥生も彼が本当に信じようとしていることに気づいた。だから、弥生も落ち着いた声で話し出した。「......私が君を助けて岸に引き上げたあと、体力を使い果たして、そのまま川に流されたの」その言葉に、瑛介の目がわずかに見開かれた。「なんとか岸に這い上がったけど、意識を失って......それから高熱を出して、その記憶もすっかりなくしてしまったの」弥生は彼を一瞥して続けた。「私があのとき大病をしたこと、知ってるでしょ?」瑛介は無言で、当時の記憶を思い返していた。彼が目を覚ましたとき、みんなが言っていたのは「奈々が助けてくれた」という話だった。彼が川に落ちる前、そばにいたのは確かに奈々で、意識を失う前に、誰かが飛び込んでくる姿がぼんやりと見えた。それは女の子のシルエットだったが、誰かまでは判別できなかった。だから、自然と奈々だと思い込んでいた。その後、近くで怪我人が搬送されたと聞き、見に行くとそれが弥生だった。川に落ちて高熱を出して、ずっと意識不明だったという話を聞
弥生が口を開こうとしたその瞬間、瑛介は一歩踏み込んで、勢いのままにドアを閉めた。そしてさらに数歩近づき、玄関の壁に彼女の身体を押しつけるように追い詰めた。「......さっき、僕を呼んだ?」瑛介の声は低くかすれていて、その目は夜の静けさに沈む獣のように鋭く、まるで獲物を見つけた狼のようだった。言葉にできない違和感が全身を走った。なんだか、彼は最近少しずつ距離を詰めてきている気がする。少なくとも、昨日まではこんな風に出てこなかったのに。今朝、帰る前におでこにキスまでしていったことまで思い出し、弥生は思わず手で彼を押し返した。「......なにしてるの? 言ったでしょ、間違えたって」「本当か」瑛介は彼女の手をしっかりと掴んで、自分の中に渦巻く想いをなんとか抑えながら言った。「君は冷静な人間だ。こんな時間に電話を掛け間違えるなんて、あり得ない」弥生の動きが止まった。「だから、僕に電話してきたってことは、用があったんだろう? 電話じゃ言えないことなら、直接聞きに来た。それだけだ」長年の付き合いがあったからこそ、彼は彼女の性格をよく知っていた。弥生は彼をじっと見つめたまま、口を引き結んだ。彼女の迷いに気づいた瑛介は、片眉を上げて訊いた。「どうした? 言いにくいことなのか? もしかして......」彼の勝手な想像を止めるために、弥生は慌てて言葉を挟んだ。「変な想像しないで。本当に、君に話したいことがあったの」それを聞いた瑛介は、「やっぱりな」といった表情を浮かべた。話を切り出してしまったからには、と弥生は静かに口を開いた。「私の言うこと、信じてくれる?」「もちろん」瑛介は即答した。「じゃあ......奈々と私、どっちの言うことを信じる?」その問いに、瑛介は少し困ったように眉を寄せながらも、彼女の後頭部にそっと手を添えて言った。「そんなの決まってるだろう。君だよ」その答えに、弥生は少しだけ安心した。ほんの少しでも迷ったそぶりを見せていたら、きっと彼に真実を伝えるのはやめようと思っただろう。信じてもらえないのなら、言っても意味がない。でも今の彼の反応は、悪くなかった。それでも、弥生はすぐには気を許さなかった。どれだけ信じてると言われても、これから伝えることは重すぎる。彼が
電話を切ったあと、弥生はスマホをそっと横に置いた。もう寝ないと......今日思い出したことについては、何かしらの証拠を見つける必要がある。そうでなければ、誰も自分の言葉を信じてはくれないだろう。何しろ、あれからもう何年も経っている。いまさらどうやって証明すればいいというのか、それ自体が大きな問題だった。布団に横になったものの、弥生にはまったく眠気が訪れなかった。頭の中には、ようやく蘇ったあの映像たちがずっと流れ続けていた。考えれば考えるほど、胸のあたりがどんどん詰まっていくような感覚が強くなっていく。あの頃、奈々が瑛介を助けたということで、彼は彼女に特別な想いを抱くようになった。もともと彼と遊ぶのは自分だけだったのに、そこに奈々が加わってからは、ずっと嫉妬していた。ひどいときには、「もし助けたのが私だったらよかったのに」なんて、そんな妄想までしていた。まさか本当に、自分が助けた側だったなんて......しかも、その功績を奈々に奪われていただなんて。思えば思うほど、弥生の瞳はじわりと細められていった。あの時、瑛介をなんとか岸まで運んだあと、奈々は弥生に手を差し伸べることなく、仕舞いにはそれを自分の手柄として名乗りを上げた。つまり、彼女は弥生が水の中にいて、流されて見えなくなったことを知っていたはずなのに、誰にも伝えず、沈黙を保ったのだ。細かく思い返すうちに、弥生の背中にはじっとりと冷や汗がにじんできた。奈々のあの性格、自分の家が破産したあとのあの「親切」も、もしかしたら......何か別の目的があったのでは?思考に沈み込んでいた弥生は、不意にスマホが震える音を聞いたような気がした。我に返って画面を見てみると、またしても瑛介からの着信だった。こんなに時間が経ってから、どうしてまた......もう話すことなんて何もない。だから弥生はそのまま着信を見つめながら、無言で放置した。もう深夜だし、さすがに一度無視されれば、二度はかけてこないだろう。予想通り、コール音は鳴り止み、それ以上の着信はなかった。だが、その代わりに瑛介から一通のメッセージが届いた。「今、君の家に来ている」画面を見た弥生は、思わず固まってしまった。彼が......ここにいる?さっきの電話から時間が開いたのは、移動
ついに、意識さえも途切れてしまった。過去の記憶が、まるで映画のように弥生の脳裏を流れていく。かつてまったく思い出せなかった出来事が、いまは細部まではっきりと浮かんできた。すべてを思い出した瞬間、弥生の呼吸は激しく乱れ、思わず胸を押さえて大きく息を吸い込んだ。どういうこと?瑛介を助けたのは、自分だったなんて!?じゃあ、奈々は?当時はたしか、「奈々が瑛介の命の恩人」って言われていたはずだった。それなのに、どうして自分がこんな記憶を持っているの? 奈々が自分の成果を横取りしたのか、それとも自分の記憶が違っているのか。でも、もし記憶違いだとしたら、どうしてこんなに鮮明で、リアルなんだろう?一時の間、弥生の呼吸は乱れたまま落ち着かなかった。十数分が過ぎて、ようやくベッドの上で身を起こした彼女は、スマホを手に取り、瑛介の番号を探し出した。そして、電話をかけようと指を滑らせた。その動作はとても素早かったが、電話がつながった瞬間、弥生はハッと我に返り、あわてて通話を切った。その後、悔しげに額を手で押さえた。何してるの、私......こんな時間に瑛介に電話して、何を話すつもりだったの? まさか、「君を助けたのは奈々じゃなくて私よ」とか言うの?信じるわけがない。もう何年も前のことを、今さら数言で伝えたところで、説得力なんてあるはずがない。そもそも、もし今この出来事を他人から聞かされたとしても、証拠がなければ、弥生自身ですら信じなかったに違いない。でも、その証拠がどこにあるというの?当時、瑛介が奈々の言葉を信じたのも無理はなかった。彼は気を失っていて、自分を助けた人間の顔なんて見ていない。そして、自分はその後、川に流されて姿を消していた。傍にいたのは奈々ただ一人だから、誰だって「奈々が助けた」と思うはずだ。今さら「実は助けたのは私だった」と言ったところで、「成果を横取りしようとしてる」としか思われないに違いない。そう考えていたそのとき、スマホが突然震えた。画面を見ると、瑛介からの着信だった。きっと、さっき自分がかけた電話に彼が気づいて、折り返してきたのだろう。何を話せば良いのか分からなかった。そう思いながらも、弥生は少し考えてから電話を取った。「もしもし、何かご用?」瑛介の声はどこ
これまでずっと思い出すことのなかった記憶が、断片的に蘇り、弥生の心に波紋を広げた。あの日、瑛介は足を滑らせて川に落ちた。彼は幼い頃に溺れた経験があって、それ以来ずっと水に対して恐怖心を抱いており、泳ぎも習っていなかった。弥生と瑛介はクラスが違ったため、外出のときは大抵、弥生は自分のクラスの友達と一緒に行動していた。あの時も、隣の机の友達が「川辺で散歩に行こう」と提案してきた。二人でいざ出発したが、途中でその友達が「忘れ物をしたから、先に川辺で待ってて」と言い、弥生は一人で川辺に向かった。春先の川辺にはまだ冷気が残っており、吹きつける風に思わず肩をすくめた弥生は、「やっぱり帰って友達に、今日は寒いからやめようって言おうかな」と迷っていた。こんな寒い中で水遊びなんて、風邪をひくかもしれない。そう思いながら引き返そうとしたその時、突然「助けて!」という叫び声が聞こえた。声のする方を見ると、そこには奈々がいて、必死に叫んでいた。「誰かいませんか!助けて!川に落ちた人がいます!」誰が落ちたの?誰かが川に落ちたと気づいた弥生は、反射的に足元の靴を脱ぎ、走りながらあたりを見た。そして、川に浮かんでいるのが瑛介だと気づいた瞬間、魂が抜けるほどの恐怖に襲われた。どうして彼が川に?彼は水が怖いんじゃなかったの?そんな考えは瞬時に吹き飛び、弥生はすぐさま上着を脱ぎ捨てて薄手のインナー姿になり、なおも叫び続ける奈々の横を駆け抜けると、そのまま迷いなく川へ飛び込んだ。川の水は氷のように冷たく、飛び込んだ瞬間、体が一気に凍りつくような感覚に襲われた。それでも、瑛介を助けなければという一心で、必死に水をかき分けて進んだ。しかし、川の流れは激しく、ようやくの思いで彼のもとにたどり着いた。その時の瑛介はすでに水を呑んで気を失っていた。だが、それがかえって良かった。なぜなら溺れている人が意識を保っていると、助けようとする者にしがみついてしまい、かえって命を危険にさらすことがあるからだ。弥生は必死に彼を岸へと引っ張った。冷たい川の水の中で、手足の感覚はどんどん鈍くなっていった。ようやく瑛介を岸辺に押し上げると、奈々が駆け寄ってきて彼を引き上げた。しかし、奈々は瑛介のことだけを気にしており、弥生のことにはまったく目もく
自殺すれば瑛介の同情を引けると思っていたのに、全く効果がないとは思いもしなかった。奈々は苛立ちながら母親を見つめた。「ママ、絶対うまくいくって言ってたじゃない。なのに、今は瑛介が電話にも出てくれない。彼、私のこと本当に見限ったんじゃないの?もう二度と会ってくれないんじゃ......」母親は唇を噛みしめた。「まさか、瑛介がここまで手強い相手だったとは......」「全部ママのせいよ!」奈々は悔しそうに泣き出した。「ママが彼に薬を盛れなんて言うから、私たちの関係がこんなふうになったのよ。あんなことしなければ、私はまだ彼のそばにいられたかもしれないのに......」彼女の泣きじゃくる姿に、母親は苛立ちを募らせ、ついには目を細めて彼女を責め始めた。「そもそも、あんたが無能すぎるのが悪いんでしょ?だから私があんな手段を考えなきゃならなかったのよ。せっかく手に入れた男を自分のせいで逃がすなんて、自業自得じゃない。そんな甘ったれた態度で、よく彼のそばにいようなんて思えるわね!」母親の罵倒に、奈々は昨夜知らない男との出来事思い出し、心の底から嫌悪感がこみ上げてきた。自分自身の無力さも、余計な口出しをした母親のことも、すべてが憎らしくなった。彼女の爪は、拳を握りしめるたびに、皮膚に食い込んでいた。一方で、弥生の家では。寝る前に、ひなのがふと弥生に尋ねた。「ママ、今夜もおじさん、うちに泊まりに来るの?」弥生はその問いに、表情を崩しかけたが、すぐに落ち着きを取り戻して答えた。「今日は来ないわ」その答えを聞いて、ひなのはほんの少しだけがっかりしたような顔を見せた。「そうなんだ......」「どうして?来てほしかったの?」そう聞くと、ひなのはにっこりと笑って、嬉しそうにうなずいた。「うん!だって、おじさんは、ひなのとお兄ちゃんのパパになるんでしょ?そしたら、悪い人を追い払ってくれるよね!」子どもの心はいつでも素直で、思っていることをそのまま口にする。「それにね、おじさんはママにもとっても優しいし、ママだって誰かに守ってもらわなきゃ!」それを聞いて、弥生は思わず微笑み、ひなのの頭を優しく撫でた。「ママは大丈夫。ひなのと陽平をちゃんと守っていければ、それでいいの。さあ、もう寝ましょうね」「じゃあ、ママ